若い医師が聞いても伝わらなかったこと

花束 終活

ある日、希望に溢れて医師会が主催するある研修会に参加しました。

それは、ACP(アドバンス ケア プランニンング)についての研修会でした。

ACP(Advance Care Planning)とは、将来の変化に備え、将来の医療及びケアについて、 本人を主体に、そのご家族や近しい人、医療・ ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、本人による意思決定を支援するプロセスのことです。

日本医師会HPより

地方の中核病院の医師が、

「こんな取り組みも始まっている。」

「ご本人の希望を叶えるために、私たちは動き出している。」

という発表が中心で、

「希望が持てる取り組みだなあ。」

と、裏切られても裏切られても信じてしまう、自分らしい受け止めで研修は進みました。

ただ、そんな中で小さな綻びが露呈していました。

若い医師の質問は、

「自分が診ているおばあさんがいるのですが、

「もう、痛いのは嫌なんや」

と言われるが、どうしたらいいでしょうか。」

という、すごく真っ当で素朴な質問でした。

最終の質疑応答の中で、手を挙げた若い医師の質問に、取りまとめをしているベテラン医師は答えられない様子でした。

とても巧妙に答えることを避け、問題をすり替えて質問に関する答えとしていました。

つまりは、おばあさんが痛いという。

「痛いのはもう嫌なんや。」

と言う、その希望に応えられない。

なぜなら、日本の医療は、本人の身体に負担をかけさせてでも命を救う医療だから。

なぜなら、日本の医療は、本人の尊厳を置き去りにしても、命を救う医療だから。

そう感じます。

私は、医療の専門家ではない。

そのことで、このように自分の意見を出すことは不適切ではないかと感じることがありましたが、普通の人が、普通に感じる感覚を、医療は置き去りにしていると感じています。

医療者にとっては、患者の命を守っているのだと思いますが、普通の人にとって、医療の現場は生活から離れすぎている。

治療のための検査も、治療のための手術も、予防のための数々の処置も、本人が選ぶには過酷になってきている。

認知症になった途端、本人の意見は聞き入れられない。

だからと言って、ご本人の希望を聞かずともいいのでしょうか。

認知症になると何もわからない。

よく認知症をご存知ない人はそう言います。

しかし、長く認知症の方と接してきた私はわかっています。

認知症の方でも、その時々の判断ができたり、時々で優しい気持ちが溢れたりするのです。

「何もわからない」

状態になるのは、よほどの状態です。

そして実際のところ、「何もわからない」状態になると言うよりは、

「何も意見を表出できる手段を持てなくなった」

状態だと思います。

つまりは失語や、意識がなくなっている状態です。それでも、

「痛い」

「不快だ」

「やめてほしい」

という気持ちはあって当然です。

自分では意見表出ができないのに、自分の知らないところでどんどんと処置が進んでいくのは普通の感覚からすると受け入れ難いことですが、普通に日常的に起きています。

人として、普通の感覚が認知症になった途端無視されるのは、尊厳を無視していることにならないのでしょうか。

認知症の症状を持っている高齢者の声なき声に耳を傾けていきたい。

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